夢源樹の店主から、無理矢理引きずり込まれた執筆者が、蔵の闇に散らばった言の葉を拾い集めて紡いだコラム。
2010.09.22 Wed.
魔物は鏡を嫌う。ドラキュラが鏡の光を嫌い、人に化けた魔物は鏡に正体が映る。日本でも妖術使いは鏡の前では力を発揮できないとされる。鏡は物を正確に映しだすが、唯一、左右が入れ替わる。左右が入れ替わることで、本性が顕になるわけだが、仏教では、これを閻魔鏡という。死後、冥界で閻魔大王の審判を受ける際、この鏡の前に立たされる。すると、そこに隠してきた人間の本性が映るというわけだ。
鏡の魔術、もしくは鏡の神秘思想は、まさにカッバーラであるといっていい。神社には本来、偶像がなく、代わりに鏡をご神体とする。拝殿に鏡が置かれているのをご覧になった方もいるだろう。
だが、よくよく考えてみると、鏡を拝むということは、鏡に映った自分自身を拝んでいることにほかならない。自分を拝むとはなんともおかしな感じもするが、ここにカッバーラの秘義が隠されている。
先に述べたように、鏡に映るのは人の本性である。邪な心をもった人は、まさに邪な自分を拝むことになる。ある意味、魔物を拝むことになるのだから、結果はいうまでもない。
逆に心が純粋な人は、その本性にはエゴ=自我、すなわち「我」がない。古神道では、鏡から我がなくなった状態、つまり「カガミ」から「ガ」をとった「カミ」=神になっていると説く。自我を消して鏡を拝むことによって、初めて神と対面できるというわけだ。
確かに、実際、鏡に映っているのは人の姿であるが、『聖書』によると、人は神に似せて創られたという。人の体は神の姿でもあるのだ。
ところで、最近、超能力者の清田益章氏が、この古神道の鏡の神秘思想に触れ、独自のサイキック・アイテムを開発中であるという。期待したいところだ。

三神たける
MIKAMI Takeru
某商業誌に超常現象系のコラムを寄稿する謎のライター。
‘70年代の多感な時期を、ユリゲラーやUFOと共に過ごす。
生年、性別不明。
